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2005.11.06 Sunday

ブラウン・バニー


ブラウン・バニー
ヴィンセント・ギャロ
クロエ・セヴィニー
B0002XG8L0


なんとなく雰囲気がダウンタウンのまっちゃんににてるヴィンセント・ギャロの監督作品。もちろん脚本も演出も主演もギャロ。

超映画批評で高得点をとっていたので期待してみたけど、見終わったあと「・・・。」と何もいえなかった。
そもそも、あたしのもっているDVDがどうも字幕がでないようになってしまっていて、部分部分しか字幕が出なかったせいもあるだろうなとおもう。
ポイントとなる部分をつかめきれずに終わってしまった。
ポイントがわからずに、最後の10分あたりのシーンをみてしまうと、なにがなんだかわからずただのポルノ映画かと思ってしまう。
あとからWebでようやく意味がわかったあたしはきっとこの映画のよさを理解しきれなかった部類だろう。

行く町々で花の名前のついた女性と関わろうとして結局彼女デイジーの面影を追っているに過ぎない事に気づく主人公。
彼女のいた街にたどり着くが、彼女は不在。メモだけ残し、宿をとり、フロント(かどっか)に「デイジーという名の女性が来たら・・・」と連絡する主人公。
すべてが彼の喪失を顕著にさせるエピソードばかり。
これは、何の説明も無くただ、ただ映し出される道路や景色の空虚感と結び付けられる。
この映画全体が喪失の物語なのだ。
そういう意味では非常にこの喪失感、空虚感は浮き彫りにされており、効果的だとは思う。

しかし、妄想の中の彼女が主人公とセックスすることに意味はあるのだろうか?しかも、フ○○で。
妄想の中でも彼女は男に屈する存在でしかないのだろうか。
いや、あれは喪失を自分自身で埋めきれない主人公がデイジーという存在で癒されたい、埋め尽くされたいという気持ちの表れなのか?

愛する女性が強姦にあいそれをただみてるだけでなにもできなかった上に、彼女は死んでしまった(薬のせいかもしれないが)という事実を受け止めきれない男の弱さを描いているのはわかるけど、性犯罪で失ってしまった彼女にフ○○させるというシーンはやっぱりいただけない気がする。

| maita-k | 映画 | 14:19 | - | - |