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2007.02.23 Friday

華氏451

[DVD]
華氏451
オスカー・ウェルナー
フランソワ・トリュフォー
ジュリー・クリスティ
B000E6GAZY

レイ・ブラッドベリ原作の映画。
監督は、フランソワ・トリュフォー。
おそらくマイケル・ムーア監督の映画『華氏911』のほうがみんな思い浮かべるんではないかな、とおもうのだけど、これは1960年代に作られた映画で、マイケル・ムーアの作品タイトルは明らかにこちらをもじっている。

華氏451というのは書物が自然発火する温度(摂氏233度)のことを表していて、この物語の世界では書物は危険思想をもたらすものとして一切排除されている。
だから、家の中にも書物なんて全然なくて、反対にもし持っていればFiremanがその名のとおり、書物を燃やしてしまうんである。
我々の世界ではFire manは消防士なんだけど、この世界では焚書官。
なんとも皮肉。

-----以下ネタバレですよ

この物語の主人公である焚書官のモンターグは一般市民が隠し持っている書物を焼き払う仕事に何の違和感も感じずに生きてきたけど、あることがきっかけで、その思想を大きくゆさぶられることになるのである。
国家から一方的に与えられる情報、それは明らかに操作されたもので真実は庶民の手の届かないところにある。
モンターグは人間本来の素直な欲望をかき立てられる。
それは「知りたい」ということ。
禁止された書物にはたくさんの世界が広がっていて、読書することの楽しさを知ってしまう。

もちろん、それはあるまじきこと。
国家に狙われた彼はその街を逃げ出し、彼は森の奥深くにひっそりと隠れ棲む人々に出会うのである。

そこは本を愛する人々が棲む森。
人々は本を完全に記憶し、人自体が本としてつまり情報そのものとなって生きているのだった。

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この作品が書かれた背景にはアメリカで戦後おこった赤狩りが大いに関係している。
赤狩りはマッカーシズムという風潮(?)のもと行われた。

wikipediaによると
マッカーシズムは、第二次世界大戦後の1948年頃より1950年代前半にかけて行われたアメリカにおける共産党員、および共産党シンパと見られる人々の排除の動き。

のことでこの動きによって国家レベルで言論弾圧や思想統制が行われた。
原作者レイがこの作品を書いたとされている理由のひとつにまさにこの赤狩りに対する批判というものがあったのは明らか。

私はこの映画を大学の図書館学(実は司書資格を持っています、多分)の授業で見たんだけど、結構印象的だったなぁ。
物語は単純だけど、言論統制をこういうかたちで見せるっていうことに感心した。
まさに図書を扱う授業でみたこともなんだけど、もとから小学生のときに家から3分のところに大きな図書館ができて、そこで本をたくさん読んだので、書籍のない世界ってありえないなーと思ったのだった。
昔の日本みたいに書物に伏字が使われたり、バツがつけられたりっていうのは見たことあっても、書物の存在自体を禁じられるってすごい・・・。

戦時中に海外で戦っていた兵士が日本語の読み物が周りに一切なくて、もってきた薬のビンに書いていた効能とか服用方法とかの文章を幾度となく読んだっていうのを昔何かで読んで、何かを読みたい、しかも自分が理解できる日本語を読みたいという人間ならではの欲望を顕著に表したエピソードだなぁと思った。

あと、電子書籍とかあるけど、わたしはそれにも抵抗があって、たしかにデジタル的に保存すれば半永久的に残るけど、紙として書物があることにも非常に意味があって、エジプトにパピルスがあるように、古代から紙は重要な文化の一つとして今も息づいてて、グーテンベルグが活版印刷を始めた時から本格的に「書物」という文化は人間に欠かせないものとなっていると思うんだけど、単純にデータをデジタル化するだけでその文化を置換することはできないよなーと思うんです。
考えすぎかしら。

あと、昔の映画だけど、非常に色が鮮やか。
フィルムの関係なのか、とてもモダーンな感じで、野宮真貴さんとか登場してきてもおかしくない感じだった(笑)

うんちくたれすぎましたが、ノスタルジックな未来を感じながらも言論の自由とは何か
マスメディアとは何か、そして書物という文化についていろいろ考えさせられるよい映画です。

| maita-k | DVD | 18:46 | - | - |