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2004.10.26 Tuesday

Deadman Walking


デッドマン・ウォーキング
スーザン・サランドン
ショーン・ペン
ロバート・プロスキー
ティム・ロビンス

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ティムロビンス監督作品。
最後の最後までマシューが本当に無罪なのかどうかを隠しているところが脚本としては非常に巧いと思う。
観客はこの男が死刑囚のわりには尼僧ヘレンに対して暴力的なふるまいをせず、優しささえ感じさせるため哀れみを感じてしまうのだ。
物語の中盤あたりには既に殺人を傍観していただけ、という彼の主張を素直に受け止めてしまっている。

ヘレンが被害者の家族に冷たくあたられ、それでも最善を尽くそうと努力をする姿にも相乗効果がある。

無実かもしれない人物が死刑という極刑を宣告されるなんて、そんな理不尽なことがあるだろうか、多くの冤罪によって無実の人物が死という形で無理やり罪を背負わされているのかと思うと死刑など愚行でしかないのでは、と観客は思ってしまうのだ。

もちろん、被害者の家族の悲しみや苦しみと事件以降の家族の形、崩壊する関係なども強く訴えられてはいるが、すでに前述したような脚本・演出により観客は死刑囚マシューの味方となってしまっている。

しかし、とうとう死刑執行の日、最後にマシューが罪を告白して、観客は今まで自分が見てきた視点がいかに他人行儀であったかを知るのだ。
マシューは実行犯であり、ただの傍観者ではない。
その事実を知ったときに、被害者の家族の姿、検事の言葉、世間の風潮、すべてがフラッシュバックするような錯覚を覚える。
死刑反対だと素直に強く思えたのはあくまでそれが無実の罪をかぶっている人に対してであって、実際に罪を犯した人に対して死刑反対だとそれでも強く思えるのかどうか。
映画の中でも会話の途中に「ずっと死刑反対派だった人がある日自分の親戚が惨殺され、その姿を見たとき、死刑賛成派になった」というようなくだりがあるのだが、死刑反対と声高らかに言える人は果たして愛する人が惨殺されてもそれでも反対といえるのだろうか、という問題を監督は提起していると思う。
もしこれが最初から実行犯だとわかっていたならば、観客の視点もだいぶ違っていると思う。
死刑執行の是非についてはあまり映画では語られないが、非常に重要な問題のひとつであり、もっと多くの人に考えてもらうべきものだというメッセージを感じた。

| maita-k | 映画 | 19:18 | comments(0) | trackbacks(0) |










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